昭和43年8月21日 夜の御理解
神様が、えー、私共、氏子にかけてくださる、うー、思いというか、願いというか、そういう願いが、このような、あー、ふうにあるんだなと、こんなに思うておって下さるんだなと、いう事を、様々な機会に分からせて頂いて、いよいよ、その感を深くするわけですが、あの、今日も、おー、昨日、久留米の佐田さんところの、おー、謝恩祭がございました。あー、なかなか、たいへん賑やかな、しかも、真心いっぱい、家族を上げてのお祭りでした。ですから、あー、もうほんとに、もう、素晴らしい、生き生きとした神様の働きを身近に感じずにおれんほどの生き生きとしたお祭りでもありました。そのお礼に今日は、家族、二人の子供さんも入れるなら、あー、家族六人、全員でお礼に、まあ、出て見えたんですけれども、えー、もう、昼から下がって、もう、四時過ぎでしたから、四時の御祈念も終わってからでしたから、ちょうどあの、裏で、あの、色々お茶でも上げながら、お話をしておる中に、えー、今日、あちらのお爺さんも、お参りなっておりました。まあ、お爺さん、反対こそされませんけれども、まあ、仏教の凝り固まりといったような感じの方ですから、えー、それでもやはり、みんなの家族のものの信心が分かっていかれるんですね。もう、昨日なんかはもう、自分も心からその、えー、沢山の参拝者に対してから、そのー、色々、奉仕しておられました。もう、私共には、もう本当に結構なお祭りを頂いてから、有難いと、その、涙をこぼしてその、喜んでおられたんですけれども、今日も、私がどうでもお礼に、私が行くと言うて、今日は付いて見えたんだそうですが、ま、そんな訳で、色々、お話をしよる中に私が、今朝からあの、ここで、今、修行しております、内田さんですね、内田公子さんが、今朝から、御夢を頂いたことを、私が話したんです。今朝ですね、あの、ここで修行しておりますあの、若い女の子ですけれどもね。あの、こういうお知らせを頂いたんだそうですと言うて話したんです。やっぱりその、佐田さんのところで宅祭りがあった。そこへその、家族の方たちが、次々と、こう玉串をあげられるのに、はあ、此の方がお爺さんだなと思うて、その、おったろころが、そのお爺さんが、玉串をこう持たれたのは良いけれども、その、玉串にね、シデが付いてなかった。あの、紙でこう切ってあるようなですね。あら、このお爺さんはあの、シデのついてない玉串を上げられよるというようなお夢であった。その事を私は、こら、どうでもお爺さん、やっぱりあなたが、榊というのは、あー、木偏に神と書いてあるから、言うなら、神心というか、真心で、一生懸命あの、お祭りを奉仕して下さったんですけれども、肝心要の神がない、信心がない。ね。こら、どうでも一つ、家族のものが足並みを揃えて、金光様のご信心をなさらなきゃならないというような意味じゃないでしょうかねと言うて、まあ、お話をした事でございます。ね。そこへあの、ちょうど公子さんが、今日は、家に帰っておりましたが、丁度、只今帰りましたといって帰ってきた。それで、私があの、お爺さんに、さっき話しましたあの、御夢を頂いたのは、この人ですよと言うて、私は、公子さんを、んー、紹介して、そしてその、また、お夢のことについて、お話をしたのでございますけどね、そういう中なら、感じさせられるものですね、神様は、全然、佐田の、佐田さんのお宅の、さの字も知らないのです、公子さんは行った事もないから。お爺さんは、どんな方かも知らないのです。それにその、公子さんに、そういうお知らせを下さったということは、どういう事であろうか。ね。とにかく、佐田さんのところの家族を、勢を揃えて信心なさっておられる、それに、お爺さんも一緒に、えー、金光様のご信心になって下さるならば、いよいよ有難いことになるだろう。いや、そうしなければ、この、例えば、あー、受けられないおかげがある。勢を揃えて信心せよと、こう仰るが、勢を揃えさせて下さろうとする働きがです、そういう、御神夢の中に、しかも、それをお話をして、そして、終わっているところに、公子さんが帰ってきて、はあ、今、話しよったお夢を頂いたのはこの人ですよと言うて、あの、話されることは、お爺さんもそれを、本当にこう、不思議なことであるなあ、とこう、神様を実感的に、ま、感じられたとこう思うのです。で、そういうような働きが、どうしてあるのか。ね。結局は、神様の願いを通したい。神様の願いを成就したいと言う、神様の願いがある。ね。ただ、不思議なこっじゃあるね、そげな御夢を頂いて、というだけじゃなくて、そういう御夢を下さることの中にです、私共が気付かせてもらうこと。佐田さん一家のものが気付かせてもらうこと、とりわけ、おじいさんが、その事を気付かれることを願うておられる。これは、私が一人、金光様のご信心にならせて貰えば、佐田の一家は、一家を挙げて信心にならせて貰う。その事を、神様が願いとしておられるんだな、それを、この娘さんに、お知らせ下さったんだなあ。しかも、今、先生から聞いた話を、今、本人から、目の前にして聞かせて頂くということは、やはり、それを、例えば、疑い深い人でも実感せん訳にはいけない。そこに、神様の願いをです。この、分かってくれよという、神様の願いと同時に、私共にも、分からせねば止まんという働きがあるけれども、それを、わからなければ仕方がない。ね。そして、分からせて頂くということはです、ね。佐田一家のものを信心させて、合楽の信心の根を張ろうといったような、さもしい神様の願いでも、思いでもなくて、本当に、そこに、佐田一家の上に、勢を揃えた信心をさせて、そして、次のおかげ、いわば、佐田さんがたが願うておられる以上の、それこそ、夢にも思わないようなおかげが、展開してくることのためにです。いわゆる、神様が、そのように手を差し伸べておられるような姿がです、紀美子さんの御夢の中に現れる。しかもそれが、タイミングよう、お爺さんの心の耳にも入っていかねばならんように、こう演出して下さっているというものを感ずるのです。ね。勢を揃えて信心せよと仰るが、ね。それには、何故しなければならんのか。いわば、しなければおられないというようにです、神様の、そういう働きを受けておるという事を、こちらが分らせて貰うて、そういう、神様の心に沿うて、家族、いよいよ勢を揃えた、がっちりとした家族、いわば、スクラムを組んでとでも申しましょうか、ね。水も漏らさんような信心。水も漏らさんようなおかげを受けていかなければならんという風に、その中から思わせられるですね。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日